あなたの人生は終わったのではない。リフォーム中なのだ。
人生が一瞬で崩れ落ちる日があります。子どもが家を出ていき、仕事を失い、事業が傾き、病気になり、結婚が壊れる。名前は違っても、崩れる音は同じです。
我に返ると、手元には何も残っていません。口座は空っぽで、ローンの明細だけがぎっしり。だから人は自分の人生に看板をかけます。「終わった」と。
でも、崩れた建物と、取り壊している建物は違います。崩れた建物の跡には廃墟が残ります。取り壊した建物の跡では工事が始まります。外から見れば、どちらもほこりが舞い、がれきが積み上がっています。違いは、現場に設計図があるかどうかです。
神がエレミヤに与えた仕事はこうでした。「あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」(エレミヤ書1:10)。壊す言葉が四つ、建てる言葉が二つ。けれど文は「建てる」で終わります。神の取り壊しは、いつも建設で終わる文なのです。
イスラエルは四十年間、毎朝天から降るマナを拾って食べました。ところがカナンの地の穀物を初めて食べた翌日、マナはぴたりと止まりました(ヨシュア記5:12)。予告もなしに。
それは罰ではありませんでした。卒業でした。養ってもらう人生から、自分の足で土地を耕す人生へ。神は生き方の枠組みそのものを変えられたのです。
同じ土地を見ても、人々の反応は分かれました。十人の斥候は「自分たちがいなごのように思えた」(民数記13:33)と崩れ落ち、民はエジプトに帰りたいと泣きました。むちの下の生活のほうがましだったと。そのときカレブが言いました。「わたしたちは必ず勝つことができます」(民数記13:30)。
私たちも、崩れた事業や関係や健康にしがみついて「元に戻してください」と祈ります。けれど新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいません(マタイ9:17)。壁紙を張り替えるだけのリフォームでは、神が用意された次の季節を受け止めきれません。基礎からの建て直しが必要なのです。マナが止まったのなら、それは新しい地に入ったしるしです。
建て直すには材料が要ります。でも、崩れた人の手には何も残っていません。
荒野に男だけで五千人が集まったとき、弟子たちの手にあったのは大麦のパン五つと魚二匹でした。弟子たちは計算を始めました。「こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」。イエスは計算しませんでした。命じられたのです。「人々をすわらせなさい」。そして皆が食べたあと、残りが十二のかごにいっぱいになりました。材料は少なすぎたのではありません。多すぎたのです。
エリシャのもとに来たやもめも同じでした。債権者が二人の息子を奴隷として連れていこうとしていて、家に残っていたのは油のつぼ一つだけ。エリシャは、空の器を借りてきなさい、少しではなく、と言いました。油はあふれ続けました。けれど、どんでん返しは最後にあります。「『もう器はありません』。すると油はとまった」(列王記下4:6)。
油は尽きたから止まったのではありません。器が尽きたから止まったのです。神の供給に終わりはありません。限界は、私が差し出す器の数なのです。
現実の目で見れば、何もありません。信仰の目で見れば、未来はもう満ちています。神は「無いものを有るもののように呼ばれる」方です(ローマ4:17)。人生を建て直す材料は、口座の残高ではなく信仰です。
誰かがベンツを買って庭に停め、鶏小屋として使っているところを想像してみてください。使えはします。雨風はしのげるし、ドアには鍵もかかる。でも、それを見て「上手に車を使っているね」と言う人はいないでしょう。使ってはいても、目的どおりではありません。
人生も同じです。一生懸命働き、お金を稼ぎ、人より先に進んだからといって、目的どおりに生きたことにはなりません。神が建てた人生を、自分の欲望を閉じ込める鶏小屋として使っているのかもしれません。
パウロは、私たちのからだは聖霊の宮だと言い、こう付け加えます。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない。代価を払って買いとられたのだ」(コリント人への第一の手紙6:19-20)。廃墟の上に建て直された建物は神殿となり、登記簿の持ち主の名前が変わるのです。
持ち主が変われば、問いも変わります。「どうすればうまく生きられるか」から「神様、残りの人生をどこで用いてくださいますか」へ。お金は目的から使命のための道具へ、健康は幸せの条件から仕えるための道具へと変わります。誰も気づかなくても、神がご存じならそれで十分です。
ですから、もし今あなたの人生が工事現場のように見えても、「終わった」という看板を早まってかけないでください。そこにふさわしい看板は、別にあるのですから。
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我に返ると、手元には何も残っていません。口座は空っぽで、ローンの明細だけがぎっしり。だから人は自分の人生に看板をかけます。「終わった」と。
でも、崩れた建物と、取り壊している建物は違います。崩れた建物の跡には廃墟が残ります。取り壊した建物の跡では工事が始まります。外から見れば、どちらもほこりが舞い、がれきが積み上がっています。違いは、現場に設計図があるかどうかです。
神がエレミヤに与えた仕事はこうでした。「あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」(エレミヤ書1:10)。壊す言葉が四つ、建てる言葉が二つ。けれど文は「建てる」で終わります。神の取り壊しは、いつも建設で終わる文なのです。
第一に、人生の構造を建て直される
イスラエルは四十年間、毎朝天から降るマナを拾って食べました。ところがカナンの地の穀物を初めて食べた翌日、マナはぴたりと止まりました(ヨシュア記5:12)。予告もなしに。
それは罰ではありませんでした。卒業でした。養ってもらう人生から、自分の足で土地を耕す人生へ。神は生き方の枠組みそのものを変えられたのです。
同じ土地を見ても、人々の反応は分かれました。十人の斥候は「自分たちがいなごのように思えた」(民数記13:33)と崩れ落ち、民はエジプトに帰りたいと泣きました。むちの下の生活のほうがましだったと。そのときカレブが言いました。「わたしたちは必ず勝つことができます」(民数記13:30)。
私たちも、崩れた事業や関係や健康にしがみついて「元に戻してください」と祈ります。けれど新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいません(マタイ9:17)。壁紙を張り替えるだけのリフォームでは、神が用意された次の季節を受け止めきれません。基礎からの建て直しが必要なのです。マナが止まったのなら、それは新しい地に入ったしるしです。
第二に、信仰という材料で建て直される
建て直すには材料が要ります。でも、崩れた人の手には何も残っていません。
荒野に男だけで五千人が集まったとき、弟子たちの手にあったのは大麦のパン五つと魚二匹でした。弟子たちは計算を始めました。「こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」。イエスは計算しませんでした。命じられたのです。「人々をすわらせなさい」。そして皆が食べたあと、残りが十二のかごにいっぱいになりました。材料は少なすぎたのではありません。多すぎたのです。
エリシャのもとに来たやもめも同じでした。債権者が二人の息子を奴隷として連れていこうとしていて、家に残っていたのは油のつぼ一つだけ。エリシャは、空の器を借りてきなさい、少しではなく、と言いました。油はあふれ続けました。けれど、どんでん返しは最後にあります。「『もう器はありません』。すると油はとまった」(列王記下4:6)。
油は尽きたから止まったのではありません。器が尽きたから止まったのです。神の供給に終わりはありません。限界は、私が差し出す器の数なのです。
現実の目で見れば、何もありません。信仰の目で見れば、未来はもう満ちています。神は「無いものを有るもののように呼ばれる」方です(ローマ4:17)。人生を建て直す材料は、口座の残高ではなく信仰です。
第三に、人生の目的そのものを建て直される
誰かがベンツを買って庭に停め、鶏小屋として使っているところを想像してみてください。使えはします。雨風はしのげるし、ドアには鍵もかかる。でも、それを見て「上手に車を使っているね」と言う人はいないでしょう。使ってはいても、目的どおりではありません。
人生も同じです。一生懸命働き、お金を稼ぎ、人より先に進んだからといって、目的どおりに生きたことにはなりません。神が建てた人生を、自分の欲望を閉じ込める鶏小屋として使っているのかもしれません。
パウロは、私たちのからだは聖霊の宮だと言い、こう付け加えます。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない。代価を払って買いとられたのだ」(コリント人への第一の手紙6:19-20)。廃墟の上に建て直された建物は神殿となり、登記簿の持ち主の名前が変わるのです。
持ち主が変われば、問いも変わります。「どうすればうまく生きられるか」から「神様、残りの人生をどこで用いてくださいますか」へ。お金は目的から使命のための道具へ、健康は幸せの条件から仕えるための道具へと変わります。誰も気づかなくても、神がご存じならそれで十分です。
「リフォーム中。施工者:神」
ですから、もし今あなたの人生が工事現場のように見えても、「終わった」という看板を早まってかけないでください。そこにふさわしい看板は、別にあるのですから。