十分の一献金についての4つの深刻な誤解
十分の一は「減らされた」基準だった
エルサレムの初代教会は、「あなたのもの」「私のもの」という区別なく自発的に分かち合い、誰も乏しい者がいない共同体でした。バルナバは自分の畑を売り、その代金をすべて使徒たちの足もとに置きました(使徒行伝4:36-37)。初代教会の基準は10%ではなく、すべてだったのです。ザアカイはイエスに出会ったあと財産の半分を施し、金持ちの青年はイエスから、すべてを施しなさいと言われました。
十分の一献金がトゥール教会会議(567年)と第2回マコン教会会議(585年)で法的な義務とされたのは、皮肉なことに、果てしないと感じられかねない献げ物の負担に、一定の限度を設ける目的も一部にあったのです。
神は十分の一を「受け取る」ことができない
ダイヤモンドでできた惑星でさえ、神の被造物です。神が私たちから受け取れるものといえば、賛美と礼拝くらいで、それさえ喜びとして私たちに返ってきます。
献金は、教会の運営、宣教、救援、貧しい人々を助けることに使われます。十分の一献金は、共同体の中で富を循環させる働きをしているのです。
物質的な祝福を受けるために十分の一を献げるというのも、論理的に筋が通りません。祝福が入ってきても、どうせまた手放さなければならないのですから。
祈らない人が、十分の一の廃止を語る
一日に何時間もの祈りと深い霊性を強調する牧師たちは、十分の一献金を大切なものとして教える傾向があります。
一方、多くの神学教授は、十分の一の法的義務は新約時代に終わり、自発的な献金のほうが聖書的だと言います。
彼らはヘブライ語やギリシャ語の原文から論じますが、その伝統のもともとの担い手である敬虔なユダヤ人の多くは、今も十分の一を取り分けています。
そして臨死体験の証言には、十分の一を献げなかったために地獄に行ったという人が、意外なほどよく出てきます。
十分の一論争そのものが世俗的
神を愛していると言いながら十分の一を献げないのは、妻を愛していると言いながら生活費を入れないようなものです。
お金がなくて十分の一を献げられないことと、十分の一を不要なものと定義し直すことは、まったく別のことです。
それは、自分が異言を語れないからといって「異言はもう終わった」と神学的に宣言するようなものです。
十分の一を献げるか献げないかで言い争うこと自体が、不信仰のしるしです。
十分の一について、たった1時間でいいので、神と直接話してみてください。
よーい、スタート!