理不尽だと感じながら、悔い改めることはできるのか?
私の悔しさは本物だ
多くの過ちには構造的な原因があります。政府にも限界があります。アイデアや予算が足りず、注意標識や法改正の周知、倫理教育をきちんと行わない。だから「うっかりや無知による罪」がたくさん生まれますが、法はそれをそう認めないので、政府もそれ以上教えようとしません。悪循環です。
そのうえ、世の中そのものが争いを避けられないようにできています。世界の大きな歯車が、けんかを生み出すのです。
慣習が変われば、優しい嫁と姑がぶつかり合い、パンデミックは家族同士を対立させ、指導者が始めた戦争で兵士が死に、小さな国は大国の争いの代償を払います。すべてを引き起こした強い側はするりと抜け出し、残された人たちだけが座って責任を分け合うのです。
だから誰もが理不尽だと感じています。一方は「なぜ私が?」と思い、もう一方は「全部私のせいなの?」と思う。
引き起こした者は逃げ、別の被害者が被告になる
いちばん多くの争いを生むのは個人ではなく、その上にある巨大な構造です。でも構造は決して全責任を負いません。国が自分の過ちをすべて償ったら破産してしまいます。それでも、そんな国でもないよりはあったほうがいい。世界はいつも、そうやって不完全なまま転がってきたのです。
残るのは、理不尽を抱えた加害者と、理不尽を抱えた被害者です。まさにここで、悔い改めがその正体を現します。悔い改めは、冷たい性格か温かい性格かの問題ではありません。この不完全な世界が転がり続けるやり方に、同意するかしないかの問題なのです。
誰もが「私は被害者だ」とだけ言えば、世界には戦争しか残りません。でも誰もがまず自分の落ち度を見るなら、世界は回り続けます。だから理不尽を感じながらする悔い改めは偉大なのです。世界がもう数センチ前に転がれるように、自分を低くする行為なのですから。
自由の原材料は、不公平だ
聖書で、罪を犯したあとのアダムはこう言いました。「あなたがわたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。一文の中に責任転嫁が二つ。では、神の側から見てみましょう。
自由意志がなければ、存在は本当の意味で生きているとは言えません。けれど自由意志を与えたら、天使たちが反逆しました。
人間も裏切るかもしれないので、神は善悪の木と蛇というテストを作りました。すると皆が文句を言いました。「なぜあんなものを作ったのですか」。
孤独なアダムがしおれてしまわないようにエバを与えたのに、アダムは振り返って神を責めました。「あなたが女をくださったから」食べたのだ、と。
誰もが責任転嫁にしがみつき続ければ、システムはいずれ崩壊します。その結果が、楽園の外での重労働でした。
では、理不尽を感じながら悔い改めることはできるのか?
理不尽を感じながら悔い改めることこそ、システムを生かし続ける唯一の方法です。創造のシステムそのものが、不公平という原材料で作られているからです。
悔い改めは、ただ人がいいからするものではありません。理不尽を抱えた人たちが自分の分の責任を手放さないときにだけ、関係も社会も動き続けると知っている人の選択なのです。
だから、悔しさを抱えたまま「それでも、私が与えた傷は私が背負います」と言うこと。それはずっと難しく、だからこそずっと深いのです。悔い改めは、本当に誰にでもできることではありません。